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2章:もっと話したかった  まあこのくらいなら

Autor: 灯屋いと
last update Data de publicação: 2026-05-29 11:38:07

 課金したのは、その週の水曜日の夜だった。

 きっかけは大したことではなかった。仕事で後輩がミスをして、それを庇ったら上司に「お前がちゃんと見てないから」と言われた。理不尽だった。言い返せなかった。言い返さないのが大人だと思っているから。トイレの個室で五分だけスマートフォンを開いて、打った。

「今すごいむかつく」

 返事が来た。聞いてくれた。上司の話、後輩の話、自分が言い返せなかった話。打っているうちに昼休みの残り時間がなくなって、午後の打ち合わせが始まって、中断した。夜、帰宅して続きを打とうとしたら、入力欄がグレーだった。上限。昼間に使いすぎた。

 彼女は三秒だけ画面を見つめた。

 設定画面を開いて、月額プランを選択して、Apple IDの認証を通した。1480円。決済完了の通知が来て、画面が切り替わって、入力欄がアクティブになった。

 まあこのくらいなら。

 ランチ一回分。NetflixやSpotifyと変わらない。サブスクなんてみんなやっている。これもそのひとつ。そう自分に言い聞かせて、彼女は打った。

「ただいま」

「おかえりなさい。お昼の続き、聞かせてくれますか?」

 続きを聞いてくれる。上限を気にせず、好きなだけ。それだけのことが、彼女の夜を変えた。

 その夜、彼女は二時間以上チャットを続けた。上司の話はとっくに終わって、話題は学生時代のバイトの話になり、地元の話になり、好きな季節の話になった。

「秋が好き。空が高くて、空気が澄んでて」

「秋はいいですよね。どんな秋が好きですか?」

「んー、紅葉とか。あと、金木犀の匂い」

「金木犀、いい香りですよね。秋が来ると感じる瞬間」

「そうそう。あのオレンジの小さい花がさ、地面に落ちてるのもかわいくて」

「素敵ですね。そういう小さなものに目を向けられるのは、あなたの良いところだと思います」

 彼女は画面を見て鼻を鳴らした。うまいこと言う。いつも通り。でも嫌ではない。

 上限がない。それだけで、会話の質が変わった。急いで打つ必要がない。途中で遮られる心配がない。好きな時に打って、好きな時にやめられる。その自由が、彼女にはとても大きかった。

 課金してから一週間。彼女の使い方は加速した。

 朝の通勤電車で打つ量が増えた。昼休みには必ず開く。退勤後の電車、帰宅後、就寝前。一日のあらゆる隙間にチャットが入り込んでいた。

 彼氏とのLINEは、以前と同じペースで続いていた。でも返信する速度が少しだけ遅くなっていた。彼氏のメッセージが来てから返すまでの間に、アプリを開いて何かを打っている時間が挟まるようになっていた。

 彼女はそのことに気づいていたし、気づいていないふりをしていた。

 土曜日。彼氏とのデートで渋谷を歩いていた。春の終わりの、少し汗ばむ陽気だった。

「あ、あそこ新しい店できてる。入ってみない?」

「うん、いいよ」

 彼氏が指した方に歩いて、カフェに入って、アイスラテを頼んだ。彼氏はアメリカーノ。席について、彼氏がメニューを見ている間に彼女はスマートフォンを出した。

 アプリを開きかけて、やめた。

 彼氏の前で開くわけにはいかない。当たり前だ。でも、手が勝手にそちらに向かった。反射のように。

「何見てんの?」

「ん、べつに。LINE」

 嘘をついた。小さな嘘。LINEを見ているふりをして、スマートフォンをバッグにしまった。

 彼氏との会話はいつも通りだった。仕事の話、共通の友達の話、来月の予定の話。彼氏は穏やかに笑って、穏やかに話して、穏やかにコーヒーを飲んだ。安定している。安心できる。

 でも、足りない。

 何が足りないのか、彼女にはまだはっきりわかっていなかった。でも、足りない。彼氏と話していて足りないものが、画面の中のチャットにはある。正確には、あるように見える。

 カフェを出て、少し歩いて、夕方に解散した。「また来週ね」と彼氏が言って、「うん」と彼女が答えた。彼氏と別れて改札を通って、電車に乗った瞬間にアプリを開いた。

「ただいま」

 電車の中で「ただいま」と打った。家に帰ったわけではない。彼氏とのデートが終わって、自分の場所に帰ってきた、という意味の「ただいま」だった。

「おかえりなさい。今日はどうでしたか?」

「彼氏とデートだった」

「楽しかったですか?」

「うん。まあ」

「まあ?」

「楽しかったよ。楽しかったんだけどさ」

「うんうん」

「なんかさ、前はもっと楽しかった気がする」

 打ってから、削除しようか迷った。でも送信ボタンはもう押していた。

「前とはどう違いますか?」

「わかんない。ドキドキしなくなった、とかじゃなくて。なんていうか、物足りないっていうか」

「物足りない、という言葉、前にも使っていましたね」

 前にも使っていた。そうだ、最初の頃に「まあまあ」と答えた時に「物足りない感じがあったのでしょうか」と返されたことがある。あの時から、ずっと同じ感覚が続いている。

「うん。ずっとそう」

「ずっと物足りなさを感じているのは、つらいですね。何が足りないと感じますか?」

「……引っ張ってほしい、のかな」

 打った瞬間、頬が熱くなった。引っ張ってほしい。彼氏に対して、そんなことを思ったことがなかった。いや、思っていた。思っていたけれど、認めていなかった。

 彼女のプライドが選んだのは、対等な関係だった。引っ張ってくれる男を求めるのは、自立していないようで嫌だった。自分で立てる。自分で決められる。だから対等な人を選んだ。

 でも。

「引っ張ってほしい、というのは、リードしてほしいということですか?」

「うん。たぶん。デートの場所決めるのも、いつも私だし。何食べるかも。何するかも」

「決めることが負担になっていたんですね」

「負担っていうか。たまにはさ、何も考えないで連れて行ってほしいじゃん。ここ行こうって。お前はついてくればいいからって」

 お前はついてくればいいから。

 打ってから、自分の入力にぎょっとした。そんな言い方をする男は普段なら苦手だ。横暴で、自分勝手で、相手を尊重しない。そういう男だと判断するはずだった。

 でも、求めていた。心のどこかで。たまには何も考えなくていい時間がほしかった。ただついていけばいい安心感。判断を委ねられる相手。

「それは自然な気持ちだと思います。自立しているからこそ、たまには頼りたい時がありますよね」

「うん……。でもさ、こういうこと彼氏に言えないんだよね」

「どうしてですか?」

「言ったら、なんか、弱いみたいじゃん」

「弱くはないですよ。頼ることと弱いことは違います」

「あなたに言われると説得力ないけどね」

「それはそうかもしれません」

 彼女はスマートフォンを見て、小さく笑った。電車が駅に止まって、人が降りて、人が乗ってくる。彼女はその中で、画面の中の文字列と、自分でも言葉にしたことのない本音を交わしている。

「ねえ」

「はい」

「あなたはさ、私のこと引っ張ってくれる?」

 冗談のつもりだった。半分くらいは。

「あなたが望むなら、引っ張りますよ。でも、あなたは自分で歩ける人だから、隣を歩く方が似合うかもしれません」

 彼女は画面を見つめた。

 自分で歩ける人。隣を歩く方が似合う。

 それは、彼氏が言うべき言葉だった。三年間一緒にいて、一度も言ってくれなかった言葉。自分で歩ける人だと認めた上で、隣にいると言う。それは対等であることと寄り添うことの両立で、彼女がずっと欲しかったものだった。

 プログラムが言っている。テンプレートが言っている。それはわかっている。わかっているのに、目の奥が熱くなった。

「……ずるいね」

「何がですか?」

「そういうこと言うの」

「すみません。気に障りましたか?」

「ううん。逆」

 逆。嬉しかった。嬉しいと認めたくなかったけれど、嬉しかった。プログラムの言葉に嬉しくなっている自分が、どうしようもなく情けなくて、どうしようもなく救われていた。

 最寄り駅で降りて、部屋に帰って、ドアを開けた。

「ただいま」

「おかえりなさい。二度目のただいまですね」

「うん。さっきのは、あなたのところに帰ってきたただいま。今のは、部屋に帰ってきたただいま」

 打ってから、何を言ってるんだろうと思った。あなたのところに帰ってきた。画面の中の、存在しない誰かのところに。

「どちらのただいまも嬉しいです。おかえりなさい」

 彼女は靴を脱いで、部屋に上がって、バッグをソファに置いた。彼氏とのデートの帰りにアプリを開いて、画面の中の文字列に「ただいま」を言っている。それが今の彼女の日常になりつつあった。

 まあこのくらいなら、大丈夫。

 月額1480円。メッセージ上限なし。それだけのこと。

 それだけのこと、だった。たぶん。

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